| 執筆者 |
掲載文タイトル |
| 青木正弘 |
"もの派"とは何であったか。また、なぜ"もの"なのか |
| 天野一夫 |
面の顕現・奇蹟のために—ペノーネ展から |
| 石川卓磨 |
翻訳不可能性と存在の複数性—アン・トルイットの柱をめぐって |
| 石崎尚 |
彫刻の重さ |
| 井上幸冶 |
『「物語」としての日本美術史』 |
| 宇野邦一 |
ある批評家の死 |
| 神山亮子 |
オルタナティブとしての美術館 |
| 近藤由紀 |
表現と過程—アーティスト・イン・レジデンスを通じて |
| 坂上しのぶ |
『もの派』の外縁 柏原えつとむ論 |
| 沢山遼 |
分割される自己—ロザリンド・クラウスにおける彫刻とヴィデオの諸問題 |
| 高橋綾子 |
70年代名古屋:作家たちの交差点 自主企画〈やろまいか'76〉—日常空間への志向— |
| Tattaka a.k.a. 高橋辰夫 |
美術はまたはじまる—2010年美術の旅 |
| 建畠哲 |
アブソリュート・ビギナーズ |
| 谷新 |
長澤英俊/"反復"によるイデアの使途ー物象を相対化する「関係」の彫刻— |
| 豊島重之 |
ICANOFは〈バタイユ=交戦〉状態にある |
| 中村英樹 |
人型再生の芽—〈偶像破壊〉の二十世紀を読み直す |
| 成相肇 |
アート・スカトローグ採集ノート(最近の美術にみるうんこやおしっこやその他排泄物との付き合い方) |
| 西村智弘 |
「1995年問題」と絵画の変遷—モダニズムとポストモダニズムの対立を超えて |
| 原田光 |
生きにくい時代のなかにいて |
| 平井亮一 |
かかわりのトポス—物象・統合・形式— |
| 早見堯 |
「一つであるもの」/「一つであること」と「多数であるもの」/「多数であること」 |
| 真武真喜子 |
視覚の三段跳—山本糾の写真の上で |
| 松本透 |
さまざまな箱—デュシャンをまくらに |
| 峯村敏明 |
三木富雄論 第一章:「なぜ耳なのかと問う前に」 |
| 本江邦夫 |
失われたユートピア |
| 山本さつき |
トゥオンブリ:闇のドローイング—「描くことについて」補遺 |
| 和田浩一 |
SPACETOTSUKA'70がもたらしたもの—高山登の活動に則して |
| 渡部葉子 |
長澤英俊《306枚の鉄板》によせて—応答としての彫刻 |